2007年06月06日

Everyone you have lived?

先月末に祖父が死んだ。私は祖父が死ぬ一ヶ月前から毎日病院に朝から夕方までいた。その一ヶ月を振り返り忘れないよう記そうと思う。

四月末に母親から、「じいちゃんが入院した」と知らされ、その時大阪にいた私は、当初軽い気持ちで、「まぁ、暇だし来週にでも帰るかなぁ」と考えていた。数日が経ち再度連絡が来た。今回は結構危険だという内容のメールだったと記憶している。その後弟にそのことを話すと「俺はすぐに帰る」と返事が来た。「そんなにまずいのか?」と改めて考え、もう一度母親に連絡すると数時間前とは違って意外に緊迫感のある返事が返ってきた。久しぶりに頭がパンクしそうになった。身内の死と言うものをこの年になるまで経験したことがなく、どういった対処を採って良いものか解らなかった。近しい人間の意見もあって、早目に帰った方が良いと判断した私は、今度は一転変わって今すぐにでも帰らないと間に合わないような気がして、即断即決即行動に移った。これは悪い癖だ。ある一定以上の思いがある場合の私の行動は冷静を欠く。今回のケースは決して悪い判断ではなかったが好判断とは言えないものだった気がする。そういう理由で、その日の晩に荷造りを開始、そして、寝ずに帰郷した。
病院に着くと顔色は悪く、痩せてはいるものの意識は明朗とした祖父がいた。「なんだ、元気じゃないか」と内心思った。焦っていた自分が一瞬にして安心しきっていた。だが、今回の入院は奇跡的な超回復を見せない限り退院することの出来ない入院であることを知った。そして、この日から私の通院が始まる。
病院に毎日いたものの、私の仕事と言ったら、食事を食べさせることと、医者の話を聞くこと、お見舞いの人が来たときに挨拶するくらいで基本的には暇だった。手の懸からない病人と言うやつだ。初日から一週間毎日いろいろな人がお見舞いにきた。ほとんど知らない人ばかり。祖父は無駄に顔が広く、そして田舎が故、多くの人がお見舞いにきた。その度にやることがない私はただ座っていることも出来ず無駄にうろうろしていた。それ以外の時は本を読むか、英語の勉強をしていた。意外なほど読書も学習もはかどった。
あとは昼寝をしていた。温度が一定に保たれ、ひたすらに時が経つのを待つことは眠くなる。看護士が部屋に入って来ても気づかずに寝続けることもしばしば。

二週間ほど経ち、私はある種の疑いを持つようになった。「じいちゃん意外に元気じゃないか?」「長生きするんじゃないか?」といったうれしい内容だ。食事もよく食べるし、顔色も良い。主治医曰く、血圧も自力で上げて来ているとのこと。毎日合っていたのでその変化は明確に解った。家族や親戚もそう感じていた。

そして一週間くらいが経ち、今度は逆にだんだんと弱ってきた。目の輝きも肌のつやも意識も衰えてきた。リアルタイムでその変化が診られた。明らかに何かが違うことを感じざるを得なかった。

病院にはボケ老人が多かった。毎日数回祖父の病室をトイレだと思って入ってくるじいさん。徘徊するばあさん。私を呼び止め、カテーテルを指差し何かをぼやくじいさん。ある一定のリズムで、あーあーと唸る隣の病室の婆さん。そのばあさんがある日いなくなった。今日はあのリズムが聞こえないなぁと思ったら、ばあさんのリズムは止まってた。人間はリズムを失うときに死んでしまうんだなぁ、と、かなり他人事ながら実感した。その時は他人事だった。

ある日祖父がいつものように苦しそうに咳をしたあと、こう言った。「もう嫌だ、死にたいよ。」と、だだをこねる子供のように、尚かつそれは圧倒的な懇願であった。
「何言ってんだ、バカ野郎。」と笑ってごまかすことしか出来なかった。
次の日も同じようなことを聞いた。「何でこんなに苦しいんだ。家に帰りたい。」と。祖父は肺ガンのことを知らなかった。それは、祖母や両親の判断によるものだった。私は、「病気治して帰ろうぜ。」としか言えなかった。
祖父はまた次の日も「死にたい」と言った。
一瞬の殺意
「あぁ、この感情がテレビなどで報道される、看病人が病人を楽にさせたくなる動機か。」もっともな動機で、完全に殺人衝動だ。しかし、あいにく私にはその勇気がなかった。

一週間後次第に意識がおかしくなる祖父。その後、壮絶極まり、気が狂い出し、意味の分からぬことを怒鳴り始めた。私は以前より両親と話し合っていたので主治医に投薬を頼んだ。そして、祖父は薬によって眠らされた。寝ているだけなので、呼べば起きる。しかし、一瞬起きたのち、すぐにまた眠る。
この瞬間が祖父の死だったかもしれない。

数日後祖父は、父と叔母(祖父の子供)が病院にいるときに大量の吐血のためにこの世を去った。
死亡診断書の死因には肺ガンと記されていた。

亡くなる2時間前に祖母と病院に行ったのだがその時は私の呼び掛けや祖母の呼び掛けにも答え、目を開けて相槌を数秒だが打っていた。その時は、まさか数時間後には、当たり前だが死んでしまうなんて思わなかった。その後、自宅にいると、母親から電話がかかってき、祖母を焦らさないように病院に連れいていったのだが、時既に遅しであった。

その時は5月26日午後4時20分だった。

一ヶ月が一瞬の出来事だった。



死んでからは無駄に忙しかった。葬式に通夜と祖父のためのイベントが目白押しだった。家族はその手伝いをするために居るんだと思った。
通夜の入棺の後で祖母の言った「おい、目ぇ開けろ!」で、弟と共にノックアウト。情けない兄弟になってしまった。通夜のあとはなんだか吹っ切れた。むしろ、良かったと思った。苦しまなくても良くなったんだから。それと犯罪者になり損ねた安堵もあった。それに、通夜の後から私は非常に酔っぱらっていた。祖父は酒が好きだったから飲まなきゃならない気がしたから飲みまくった。

生きたら死ぬ。
ただそれだけの事なのだが、如何に悔おうとも過去というものは戻りはせず、現実という日々が続いている。

今、祖父は49日間の修行中。このあと「酒」という字が入っている修行をしなければならない。そこに停滞し続け無きゃ良いが。
祖父は天国へと旅立った。

そして、私も旅に出る。

そのための資金を作るために今から豆腐工場の夜勤へ出かける。
押し寄せる大豆製品。
ベルトコンベアーのお出ましだ。

ピース
posted by Mastervie at 18:19| Comment(0) | 徒然 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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